花音――カノン――


それは大学に入学したての春の事だった。
 その日、僕は困り果てていた。なぜかといえば理由は至極簡単、迷ったのである。僕はまったく見覚えの無い住宅街をさ迷い歩いていた。
 迷子になるなんて一体いつ以来の出来事だろうか、と考えられる辺り、まだ絶望感もないのだろう。そう半ば他人事のように思っていた。更に僕は、迷う前の自分の行動を振り返る。一体何が悪かったんだろう、遠くに大学が見えて、近道をしようとしたのがいけなかったのだろうか。
 まだ珍しい不慣れな町の住宅街には、やはり慣れない花の香りが漂っていた。それは異国の香りのように華やいでいる。家の作りも欧米を意識したようなレンガ造りや白亜の壁であった。
 「外国になんて行った事は無いんだけど」
 そう呟いて、僕は笑う。
 状況的には、幼い頃の冒険のように楽しい。しかし、だ。
 このまま迷い続ければ、大学の講義に遅刻するのは目に見えている。脳内には、過去、中学受験の時に母から言われた言葉が勝手に思い浮かんでくる。
あなたはもう少し、焦るということを覚えなさい!
過去の記憶のはずなのに、その言葉だけは鮮やかに脳内に響いた気がする。
 母の言葉を参考に、僕は焦ると言う行動に出ることにした、具体的にどうしたら焦るという行動ができるのかはわからないのだが。
 ちょうど、僕が自分なりに焦り始めた時だった。
 花の香りと鮮やかな色彩を露払いに従え、彼女の声が響いた。
 彼女、と言うのはその音の印象だ。実際はバイオリンか何か、そういう楽器のような音である。
柔らかいようで、少し気まぐれなような響き、旋律。その彼女の音が奏でるのはカノン。パッヘルベルのカノン、有名な曲だ。
 僕は自然と、音のする方へと歩き出す。理由は無い、なんとなくだった。
 花の香りと、春特有の包み込むような暖かさをかき分け少し歩くと、その音の発信源にたどり着く。
 ある一軒の家の中から聞こえてくる古き良きバイオリンの音。
 周りの家と同じようにバラやなにか西洋風の植物に彩られた庭の先、大きな窓からバイオリンがちらちらと見え隠れしている。窓際には、毛の長い猫が一匹、小さな花瓶の横に座っていた。
 僕は、無意識にその窓を凝視してしまう。
タイミングを計ったかのように途切れる旋律。揺れるセピアの髪が、俯き加減の奏者の顔を覆い隠す。そのまま窓に背を向けて、奏者――若い女性らしき彼女は僕の視界から消える――、ように思った。
その瞬間。
 窓に座る猫が不機嫌そうに大きく尻尾を振ったのだった。それが小さな花瓶を倒してしまう。
 彼女が、柔らかな動作で振り返った。そして。
僕と、彼女の視線がかち合う。振り向いた拍子に揺れた髪の一本一本が重力に従って落ちていくのがハイビジョン映像のように僕の目に映った。
 一瞬、暖かな春の風が、僕を咎める様に吹く。そう感じた時には、すでに僕はその場から駆け出だした直後であった。駆け出したのか、逃げ出したのか。それすら僕は考える余裕が無かった。
 花の香りを切り裂いて、その主の花達には驚いた顔をされつつ僕は住宅街の終わりまで一気に駆け抜ける。
 迷い込んだ住宅街は高台だったらしく、開けた空に大学の校舎が見えた。息を切らしながら僕は呆然とそれを眺める。実際、僕がその校舎の存在に気付いたのは少し後のことだ。
 今は、ただただあのバイオリンの主のことを考えてしまっている。
 何故僕はあの場から逃げ出したのか。家を覗いていたのがばれたからなのか、それとも別のことが原因なのか。ただ僕は呆然と風に揺れる花のざわめきに聞き入っていた。
 今、唯一ついえるのは、人生初かもしれない強烈な焦りを僕が胸に抱いていることだけ。




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