月の雨

僕は、春の夜の月の光が嫌いだ。
何故?どうして?そう聞かれても、正確には答えられないけれど。
僕は、春の夜の月の光が嫌いなんだ。
夜、一人で部屋にいるときにカーテンの隙間からこぼれ落ちてくる月光は、さながら雨のように僕の心を水浸しにしていくのだ。そして、濡れて沈んだ心からあふれ出してくるのは、哀しみでもない、絶望でもない。
孤独。
まだ本物の雨の夜のほうがマシだ。そう思った事なんて、そう思う事が当たり前すぎてすぐには思い出せない。
とにかく、月の光がカーテンから落ちてこないように、春の夜は毎夜毎夜試行錯誤を凝らす。夜はそんな内に更けて朝が来るのだ。
しかし、今日は違った。

僕はワンルームマンションに住んでいる。部屋が位置するのはマンションの一階。隣近所には子供のいる家庭が多い。
それが、今日の悲劇を生んだ。
その悲劇を知ったのは、僕がようやく慣れ始めた仕事と上司の小言に疲れ、マンションに帰ってきた時。さらにはマンションの自室のドアの鍵を、その鍵穴に差し込んだ瞬間だった。
「すいません、うちの子供が――」
僕の右の方から話しかけて来た、僕の部屋の右隣に住んでいる奥さん。
申し訳なさそうに下げられた両口元。それの間から発せられたた謝罪の言葉はこう続いたのだ。
「お部屋の窓にボールをぶつけて割ってしまいまして……。一応、ダンボールで代用しておきましたから。明日、修理してくださる方を呼びます、あ、お金もこっちが払いますから。本当に、ごめんなさいね」
僕は、隣の奥さんの謝罪なんて聞いていられなかった。
人一人が余裕で出入りできる、一枚ガラスのサッシ割れたなんて。
外は、眩しいくらいに晴れているのに。
ダンボールでの補強で、カーテンを揺らす風が遮断できるのか?
夜には雲一つ無い良い天気になるらしい。
ベッドは窓のすぐ傍に置いてあるって言うのに。
そういえば、夕方から明朝にかけて春の嵐が吹くらしい。
月の雨から逃げられない……?


夜が来た。
深い夜の中に僕はいる。
外は風が音を立てて吹き荒れ、時折、窓ガラスの代用品であるダンボールに枯葉だの砂だのが当たる音が部屋に響いてきた。
ダンボールは、僕の予想通り風の力に耐え切れないようで、時々パタパタと音を立てて窓枠を叩いている。その音にあわせて、カーテンが揺れる。
ユラリユラリと揺れるカーテンと踊るように、月の光が部屋に差し込んできた。
僕は部屋の隅に、毛布に包まって膝を立てて座っている。
カーテンに勢いを殺されてフワリフワリと吹き込んでくる風が、僕の髪を揺らした。
僕は、月から僕めがけて降ってくる雨に視線を移す。
見れば見るほど切なくなる。寂しくなる。
孤独だ。
どうして?
なんで、僕はそう感じる?
馬鹿みたいに部屋の隅にうずくまって。
僕はなんて弱いんだ。でも、自嘲もできないくらいに孤独を感じる。
孤独。
苦しい。
どうして?
分からない。
分からないからなおさら――。
「辛い……」
僕がこぼした瞬間、一段と強い春の嵐が僕を咎めるように吹き込んできた。そのせいでカーテンは三分の二ほどが凄い勢いで開き、ダンボールが折れ曲がってしまった。
「……」
僕は、それをしばらく眺めていたが、我に返って月の雨が降り注ぐ下へ向かった。
そこからは見えたのは、いつもどおりの風景、いつもと違う光源。
月の雨に濡らされた木々が、春の嵐と共に踊る。
不意に、僕は外に出なくてはいけないと思った。
別に何が見えたわけでもない。なにかを思い出したでもない。
しいて言うなら、誘われたのだ。春の嵐に。
少し、散歩でもしないか、と。


夜の街は春の嵐の歌う歌に耳を傾け、月の光に照らされて穏やかに眠っていた。月の光のほかにあるのは、かすかな街灯だけ。月光と風の作り出す夜独特の雰囲気を壊すものは何もない。
僕は、春の嵐の呼ぶほうへ歩いていた。はたから見れば変人か夢遊病患者に見えるだろうけど、そんな事は関係ない。
僕は今言いようのない高揚感を感じていた。何にとも分からない、でも、この分からないは分からないままでいいと思った。
歩き始めて数分もしない頃だろうか、僕が普段通らない道を通ってたどり着いたのは、春を除く四季の中であれば、何の変哲も無い公園。広さだって、広いと胸を張っていえるほどでもない。
生憎、今の季節は春。何か変わった事があるのだ、その公園は。
それは。
公園を囲うように生きる桜の大木たちが、公園を淡く儚い淡紅色に彩っている事。
「……っ」
それはあまりにも美しかった。それを見て、初めて僕は息をのむという行為をしてしまったほどだ。
春の嵐に揺れ、宙を狂い踊る花弁達。月の光に照らされて、穏やかに微笑む大木と花。
気が付けば僕は彼らの中心へと歩みを進めていた。
大量の花弁達に囲まれて、僕の孤独はすっかり消えていた。
あぁ、そうか。あの長年悩まされていた孤独感は、今日この日この時のためにあったのか。そう思ったところで僕は、空を見上げた。その先で見たのは、天井で輝く少しかけた満月。

僕の心を濡らす月の雨は、いつの間にか止んでいた。


それから数十分後、僕は、家路に着いた。
「この帰り道に、何か出会いでもあればまた楽しいのに」
何かとの運命的な出会いを期待するような心がまだ残っていた僕に、僕自身で笑いかけて、僕はゆっくりと歩き出す。

運命の出会いがあるかどうかは、きっと春の嵐が知っているのだろう。