愛求マキャベリスト



 不吉を纏ったような風が、辺りを邪悪に導こうと吹き荒れる。
その風に踊らされ、今はまだ純粋なる真白い花弁が一枚、両膝をついて祈る彼女の下へと滑り込んだ。
 少女は、身に纏う清廉なる雰囲気と共に立ち上がる。そして一歩。向かうは開け放たれた窓の先、巫女の住まう礼拝堂のテラスだ。
 もう一度、鬼気迫る風が吹き抜ける。その度、見渡す庭、息づく木々に咲く純白の花々が、その純真の欠片達を散らした。
「……胸騒ぎがする」
テラスにて、少女がつぶやく。
どこの誰が言った言葉か、『巫女の言葉は神の言葉』である。少女の落とした呟きは、ただの気のせいなのか。それとも神のお告げ、事の起こる前兆なのか。
遠くを見れば、礼拝堂を囲う整備された林に一つの人影。
「……あれは……、……」
見知った立ち姿、ドレス。だがやや遠方であるせいで誰かは特定できない。少女が瞼を伏せた。記憶の中に、その姿を探し始めたのだろう。
「リーゼ、お祈りは終わったのかい?」
ちょうどその時、背後からかけられた声。少女――アルトー王国の巫女リーゼ・アルトーは波打ったキャラメルブラウンの髪を散らせ、ゆったりと振り返る。
「お父様、いつの間に」
花がほころぶようなリーゼの笑顔。それに答え、彼女の父は微笑した。
「お前がテラスに出た時に入ってきたんだよ」
「そうでしたの」
「少し、話をしよう」  先ほどの笑顔とは違う、不安を煽る低い声。言い淀み、伏せられた父の目。
「話?なにかありましたの?」
リーゼはキャラメルブラウンの髪を揺らし、一つ首を傾げた。
「……クレールのことなんだが……」
「クレール叔父様の? 叔父様が何か?」
 リーゼが小首を傾げ、大きめの瞳を瞬かせる。その動きに合わせて揺れた柔らかそうな彼女の髪。
「どうもフェリーチェとの仲が怪しい」
「まぁ、お義母様との?」
「それだけじゃないなにか――」
父が、やせ細った頬を撫でた。それをダークブルーの瞳で捉えつつ、リーゼは先ほど見た人影を思い出す。無意識だろうリーゼは、父にしてアルトー王国国王アロワから、外の人影へと視線を逸らした。
「……いない?」
直後、リーゼの鼓膜を、裏返った男の悲鳴がつんざく。その声は確かに、今まで継母と叔父の関係を疑っていた父のもの。
「え?」
何事かとリーゼが目の前の父を凝視。それとほぼ同時、彼女の全身に、生暖かい何かが降りたかった。
「リーゼ、にげ……」
リーゼは、理解できなかった。目の前、先ほどまで無事であった父の、弓矢が首に刺さった姿を。
波のように流れ出る赤と黒の血液。
「……え?」
再度、リーゼが疑問の声を口にする。その最中、アロワが真っ白い床に赤を飛び散らせて倒れこんだ。
「……お、お父様っ!! だ、誰か!! 誰か来て!!」
混乱、混乱、混乱。リーゼは目の前で起こったことを理解できず、叫んだ。
 迫る足音。それは彼女自身の悲鳴でかき消された。蒼白に染まっていくリーゼの顔色。
 リーゼの目の前で、父、アロワは動かなくなっていった。
「誰かいないの!? 誰か!!」
 再度、リーゼが叫ぶ。しかし誰からも返事は無い。
「お父様、お父様、お父様、お父様、お父様、お父様」
小さく小さく呟きながら、父に刺さったままの弓矢をどうにかしようとリーゼは手を中に彷徨わせた。しかし医療の知識など無いに等しい彼女には――。いや、いくら医療の知識がある人物であろうと、治療など出来る状態ではない。
 ――アロワ・アルトーはすでに息をしていないのだ。
「お父様、お父様……」
 直後。リーゼの鼻腔をくすぐったのは、艶やかなる花の香り。彼女は、その時ようやく近付いて来た足音に気付いたらしい。振り返ろうとするが――。
「この、香り……は……?」
リーゼがそれを認識すると同時に、彼女は意識を手放していた。
真白い巫女服が、広がるのをやめた血の海に沈んでいく。

 白みがかった映像。直接聞こえているようなのに、どこか遠い声。
「リーゼ、ほら見てみなさい。この花を」
 現在よりも若いアロワが、幼いリーゼを腕に抱いている。
「わぁ、綺麗! なんと言うお花ですか!?」
 リーゼの幼い頃の、父との記憶だった。幼い彼女を抱いた父が持つのは、薄青い、何十もの花弁を従わせた豪奢な花。
「色々な可能性を持った花らしい」
「可能性?」
 不思議そうな煌き、ダークブルーの瞳が瞼で見え隠れする。そうする度に、瞳に影を落とす睫毛が揺れた。
「あぁ、リーゼのような花だ」
「私?」
「そう、歌姫巫女リーゼのような。今は何も出来なくとも、神はお前をお見捨てにはならないから。祈りなさい、自由と自我、そして歌の女神、フェリシテ様に」
父の大きな手が、リーゼの小さな頭を撫でる。
「はい、お父様。でも、そのお花――」
「これはね。――が―――……」
「そうなのですか!」
夢の中では確かに父の声が聞こえる。しかしそれは今のリーゼには認識出来ない。
徐々に夢は覚めていった。



戻る 次へ