リーゼが目を覚ましたのは、天井から月の光が降り注ぐ頃。項垂れるリーゼを後ろから抱え、エルヴェは火を焚いていた。
「ここは?」
「あの丘の近くだよ。花の匂いがいけなかったのかと思って風上に行ったんだ」
優しげな声が、リーゼの耳元で問いに答える。
「……ありがとう」
 柔らかく、火が揺れた。昨日と大差は無いのかもしれないが、今日は酷く冷える。
「目を覚ましてくれてよかった。リーゼが目を覚まさなかったらどうしようかと思って、不安だったよ」
 一つ漏らして、エルヴェは焚き火に木の枝を投げ入れた。
「……心配をかけました……」
「やっぱり、明日中には城へ行けると思うよ」
 リーゼの願いが叶えられることがうれしいのか、エルヴェの声は弾んでいる。
「そう、助かるの、ですね」
 本当に、助かるのだろうか?
リーゼの心に過ぎった不安。それを振り切るように、リーゼは頭を小さく振った。
いや、助かる。そう信じよう。
「もう、肉親は叔父様だけなのだから……」
 そう、助かるんだ。
リーゼはダークブルーの瞳に揺れる火を映す。そして再度、自らに言い聞かせた。
「エルヴェ、貴方、城に留まってくださる?」
 一人だけでは、やはり不安なのだろう、リーゼはエルヴェに投げかけた。
 だが、エルヴェからの返答は無い。ただ彼は、風になびく火を見つめている。
「……エルヴェ?」
 城には、留まれないのだろうか?
 不安に駆られたリーゼの心。それを映すかのように、同じく不安そうな瞳。それをエルヴェに向け、リーゼはもう一度彼の名を呼んだ。
「エルヴェ?」
「……リーゼ?今、何か言った?」
「え?」
 こんなに近くにいるのに、エルヴェには聞こえなかったというのだろうか、リーゼの呼び声が。
「聞こえ……ない?」
「エルヴェ?」
「聞こえないんだ、リーゼの声も森の音も」
エルヴェの耳に届いていなかったのは、リーゼの声だけではなかったらしい。火の燃える音も、森の気配も。何も聞こえていなかったのだ。
彼の耳に、今聞こえる音は、虫の羽音と微かな人の唸り声だった。
「……なんでなんでなんで? 聞こえない、聞こえない……。リーゼの声が」
「エルヴェ?どう――」
リーゼが首を傾げれば、更にエルヴェの表情が険しくなる。そして彼は何を思ったか、今まで包んでいた程度であったリーゼの体をきつく抱きしめたのだ。
「!?」
「君の温もりがない。さっきまで温かかったのに!!」
 リーゼが痛みを感じるほどに、きつくきつく彼女を抱きしめ続けるエルヴェ。それにも関わらず、そこに彼女の柔らかな温もりはなかった。しかし、何の感触もしないわけではない。ぬめった、柔らかい何か。そして布の感触が、エルヴェの脳には認識されていた。
「……臭い」
「え?」
 花の香りでもするのだろうか?
リーゼは首をかしげた。しかし、エルヴェの表情はそんな生易しいものではない。エルヴェの顔へ振り返ったリーゼが目にしたのは、何かに怯える子供のように見開かれたサンシャイングリーンの瞳。
「……臭い……。臭い、臭い、臭い! 何か腐ってる! 気持ちが悪い! ここは! ここは嫌だ! 助けて! 助けてリーゼ!」
 リーゼが、エルヴェに向き直った。地に膝をつき、女神フォリシテに願う時のような姿勢。そしてリーゼは、怯えきったままで何かから逃げるように後退していく彼の手を取った。
「エルヴェ、落ち着いて! そんな匂いしない!」
「ここは、ここは僕は? そうだ僕は……。僕は奴隷。市場の奴隷だった。じゃあこの匂いは――」
 もう、エルヴェにはリーゼの声も温もりも届いていないのだろう。彼がリーゼの言葉聞くそぶりは無い。小さく小さく呟いた。その直後――。
エルヴェの瞳が、これでもかとばかりに開かれた。
「……死体、置き場」
 エルヴェの瞳に映ったものは、リーゼには見ることが出来ない。しかし、彼の表情は壮絶、この世の地獄でも見たかのような恐怖を形取っていた。
「殺される……」
不吉な呟きを残して、エルヴェという存在が、闇に解け消え去る。
 冷たい月光が、唯一残った剣と、一人きりのリーゼを森に浮き出させていた。



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