リーゼはドアの前に立つ。着替えを終え、今は雪よりも白い巫女服を纏うリーゼ。彼女は遠慮がちにドアを叩いた。
「あの……、服を……」
 声を掛ければ、警戒する素振りも無く目の前の板切れが動く。リーゼは一度肩を震わせ、しかしそれでも自らドアを押した。板切れの開ききった先、姿を現したのはオブシダンの瞳。
「ん」
扉の真隣でしゃがみこんで、本を読んでいたらしいユー。彼の手が、今や茶色く変色し始めた前の巫女服を気配無く奪い取った。レメディスやビスとは違い、彼はあまりリーゼという存在に興味を示そうとしない。それを形にしたかのような、愛想の無い動作、視線。
「……あの」
 縮こまりながらも、リーゼは懸命に問う。ここでは、唯一の情報源なのだ、彼が。
 レメディスはきっと何も教えてくれない。そうリーゼは踏んでいた。見ていた限り、ビスはあまり頭が良くないらしい、間違ったことを言われてもしかたがない。
 だから、頼りはユーだけだった。
「ん?」
 短い返答。予測だが、ユーのオブシダン・ブラックの瞳が映しているのは、本の何行目かだろう。
 リーゼは生まれてから今まで、人からこんな扱いを受けたことが無かった。初めての経験に、彼女は視線を宙に彷徨わせる。
「……私どうなるのでしょう?」
 先ほどよりも小声、さらには申し訳なさそうな口調。それでもリーゼは、少ない勇気を振り絞り食い下がった。
 ここには、自分を助けてくれる人などいないのだ。
リーゼのダークブルーの瞳は、僅かだが、確かな決意の色に染まっていた。
「あぁ、その事。知らない、俺、奴隷だし」
「そうなのですか」
 そうだよ、とでも言わんとしたのだろうか、ユーの視線がリーゼに注がれる。しかし、リーゼはそれに気付かない。彼女は、奴隷と言うものを本当に見た事が無かったのだ。唯一彼らという存在の事を知ることが出来たのは、自治を教育係に教わった時。それと城の資料室に置いてある本だけだったのだ。その内容を慎重に思い出しながら、リーゼは続けた。
「それなら、父は? 国王アロワは――」
「アロワは死んだ」
 衝撃的な答え。そのはずだった。しかしリーゼは目の前で見ていたのだ、父が倒れる姿を。そのせいか、心に衝撃はあったが、思うほどのものではない。ただ、まだ実感が無いせいかもしれないが。
 その時だ。僅かに動揺するリーゼの脳内に浮かんだ、ある事。それは歌姫巫女として、王族として、王の娘としての思考だった。
「国は!? 今どうなっているのですか!?」
 国民は混乱しているのでは?
 政治は機能しているのか?
 後継者争いなど起きていないのか?
リーゼの脳内を巡るのは、血で血を洗うような殺戮のイメージ。
「あんたも死んだことになってる。国は実質、クレール様の――」
「おい! ユー! なにやってる!? なに話してやがる!?」
 突如と聞こえたレメディスの怒声の強襲をくらい、貴重な情報源が口を閉じてしまう。
「レメディス様」
ユーが淡々と呼べば、荒い足音が駆けてきた。しかし、リーゼには板切れが陰になってしまっていてその姿は確認できない。
ユーが壁に寄りかからせていた体を起こし、腰を上げた。そしてリーゼから少し距離を置く。どうやら彼はこれから先に起こる事柄を傍観することを決め込んだらしい。
リーゼが恐る恐るドアから顔を出せば、降り注ぐ幻想的なファントムグレーの視線。顔を上げれば、意外な近さにレメディスが瞠目して立ち尽くしていた。
「お姫様、君も立場を弁えないと。誘拐されてるんだ、今。」
 こめかみより少し上の髪を掻き毟って、レメディスは大きく溜息を吐く。
「ごめんなさい、レメディス……。でも、一つ聞かせてください」
 不安げに顰められた眉。それでもダークブルーの瞳は、意思強くレメディスに訴えかけてきた。
 リーゼを外に出さないためか、ドアに軽く寄りかかっていたレメディスが腕を組む。その動きで、結い上げられた淡青の髪が流れた。さらに一度、溜息。そして、ファントムグレーの瞳で、リーゼの問いの先を促す。
 可の知らせに、リーゼは誰もが認めるだろう可憐な笑みを一つ。しかしそれも一瞬で消えてしまった。次には、彼女の瞳の煌きは深みと悲しみを増し、レメディスを貫いた。
「貴方が、お父様を?」
「俺じゃない」
 質問の内容を予測した、見事な即答。
「じゃあ誰が!?」
 リーゼは珍しく、声を荒げた。巫女は落ち着き、清廉で、神聖でなければならないと教育を受けている。声を荒げるどころか、無理に何か質問するということも無い。期間にしたら短い間だが、城務めをしていたレメディスは十分に知り得たことだった。
「レメディス!」
 リーゼが、頭一つ分上にあるファントムグレーを見つめ、彼に縋り付く。
 それでもレメディスは、瞳を閉じて、リーゼを室内に追いやった。
「……部屋に入るんだ、聞き分けの無いオヒメサマ。日が暮れてきたから少し冷えるが、すぐに暖炉に火をつけるから。飯もそろそろだ」
「……どうして?」
 教えてくれないの?とリーゼは震えた声を震えた声を落とす。
「大事な、人質だから」
 ごまかしなのか否か、レメディスはリーゼの耳元で囁いた。それは優しく、甘い囁き。
「さぁ、部屋に。ユー!」
隅で二人のやり取りを眺めていたユーが、静かに頷いてリーゼを部屋に押し込んだ。丁度その時、ややしんみりした空気を打ち壊さんばかりの勢いで聞こえてきた、重く荒々しい足音。
「レメディス様!薪、薪ィ!」
続けて、階段から見えたのはスカーレットの短髪と大量に抱えられた薪だった。
「あぁ、丁度良い、火ィつけて来い」
 レメディスがリーゼの肩を強引に押し、室内、ドアの横へとリーゼを導く。そして彼自身もリーゼの横に並んだ。ユーも密かにそれに続く。
直後、彼らのすぐ横をビスが暴れ牛のような迫力で通り過ぎていった。彼が向かうのは古びた暖炉。一直線に歩き――。
「走るな、転ぶぞ!」
レメディスが言い、ファントムグレーの長髪を撫でた、その直後。
山のように抱えた薪の一本が、ビスの足元に落ちる。
「う、わっ!」
 足元が、手に持つ薪で見えていないらしいビスが、鮮やかに落ちたそれを踏みつけて体勢を崩した。前のめりになりながら一歩、二歩、三歩。歩く度にビスはバランスの立て直しを図る。しかし、如何せん、彼の両手は塞がっているのだ。そのままビスは、頭から古いベッドに倒れ込んだ。
「お前! 窓に――」
 レメディスが気付き叫ぶが、時既に遅し。薪は勢いから逃れられずに、窓に突っ込んだ。
甲高い不協和音を立て、窓が砕け散る。
黄昏の気配と共に、冷えた空気が滑りこんできた。それがリーゼに届いたとき、彼女は腕をたたんで身震う。
「……おい」
「レメディス様……」
レメディスの、決してリーゼには向けないだろう低い声。それを聞いて方を跳ねさせるビス。そして彼は泣きそうな顔をしてレメディスを見上げた。
「はぁ……、しょうがない。お姫様、飯にしようか。ここはもう使えないから、下へ。ユー!」
 また傍観を決め込んでいたユーが、はい、と黒曜の瞳でレメディスの呼び掛けに答える。
「連れて行け」
 このまま、ここを使わせ続けることも可能だろうに。レメディスはそうはしない。
「優しいのですね、レメディス。変わってない……」
「そうだよ、レメディス様は優しいんだ!」
「お前が言うな!」
ビスがベッドに倒れ込んだまま、自信ありげに声を張った。それを幻想的なファントムグレーで睨みつける。その様を見ながら、ユーが唇の端を吊り上げていた。
「お前も、笑ってんじゃねぇよ」
 荒げられた声と同時に、レメディスの拳がユーの側頭部に直撃。バラバラに伸ばされたオブシダン・ブラックの髪が、風に揺れる枝のように揺れた。



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