清らかなる歌声が、彼の耳に届く。
「……歌?」
深夜にも関わらず賑わうそこは、市場か何かだろう。商品の前に立つ売人が身なりの良い客たちに、次々に値段を提示していっていた。
「歌が……」
 再度、彼が呟く。辺りを見回すが、誰かが歌を歌っている様子はない。第一、こんな場所に、これほど清廉な歌が歌える人物がいるはずが無かった。
「……気のせい」
 彼は呟く。しかし、その歌声は聞こえなくなるどころか、徐々に鮮明に旋律を奏でていった。
 純粋にして何かを強く願うような歌。悲しげな声。
 ――助けて――。
 彼の耳に、確かに届いた。助けを求める嘆声。
 直後、彼の耳から音が消え去った。今まで耳に聞こえていた賑わいが消え、次に聞こえたのは、先ほどよりもはっきりとした歌。それに深い森の中にいるような木々の葉が擦れる音。
「……何?」
 彼の視界は確かに、あの市場が映っているのだ。
 目の前の華やかにして残酷な風景と、聞いている音が合わない。
 彼は、どうすることも出来ずに、目の前の鉄格子に縋り付いた。しかし予測していたらしい夜風に冷やされた鉄の感触も、消えている。
 目の前にいた男が、振り返って何かを言った。それでも、その声は彼の耳には届くこと無い。
 深い深い森の匂いが、辺りに立ち込めた。
「ここは……」
 彼は驚愕し、聞こえぬ声で呟く。驚くのも無理は無い、何故なら、彼がいるのは相変わらず市場のど真ん中だからだ。ほぼそれと同時のタイミングで、彼の視界が暗転。しかしそれもすぐに晴れ、彼が見たのは――。
 濃密なる闇と森。そして天井から降り注ぐ月の光が、雨の様に暗い森と、それに似つかわしい古びた家を照らしているさまだった。
 
 深い森が、空を焼き始めた光を生命の源に変え始める。
満ち溢れる澄んだ空気。森が朝露に濡れ、星のような煌きを見せていた。
 希望の朝の始まり。夜が逃げて行く。それとは正反対に、リーゼの声は嗄れはじめていた。無理も無い、彼女は一晩中歌い続けていたのだから。
「オ姫サマ、そろそろ休んだらどうだ?」
レメディスの好青年風の声が、リーゼの背を叩く。それでも、リーゼは身動ぎすらせず、枯れはじめて尚清らかな歌声を響かせた。
まるで、歌い願うことが歌姫巫女の定め、使命で、それが自らの意思だとでも言わんばかりに。
レメディスは息をついた。その呼気は真白く染まり、宙に消える。夜から朝に掛けての冷え込みは中々のものである。その証拠に、防寒具を持たないレメディスだけでなく、毛布に包まったリーゼの息も白かった。
伏せた瞼、真白い溜息。ファントムグレーの髪を、レメディスは掻き毟る。
「一応言っておくけど、ユーの飯は不味いから。ビスなんて論外だ」
レメディスがわざとらしく溢したのは苦笑。そして彼は続けた。
「不味いのに、ユーは飯作りたがるんだ。早く降りないとアイツが目を覚ます、お姫様」
 レメディスは言いながら立ち上がり、リーゼの横へ。そして胸の前に組んだリーゼの手を取る。そのために屈んだ際、彼のファントムグレーの髪がリーゼの視界の中、降っていった。
 まるで、姫をエスコートしようとする騎士。朝焼けの光に照らされた一枚画のような光景。
 リーゼは、そこまでされては歌い続けることは出来なかった。声を止め、ダークブルーの視線をレメディスに向けた。
 刹那、事は起こる。
 響いた轟音、砕け散る二階の壁。
 二人の視線が、音の方へと弾かれる。
 舞う砂埃。弱い朝の光が僅かに遮られた。
「お姫様! 下がれ!」
レメディスが叫ぶ。そして膝立ちのまま硬直するリーゼを、自らの影に押し込んだ。
壁が粉砕されたために砂塵が散り、辺りを茶に変える。その中に、一人。何者かの人型が揺れた。
「誰だ!?」
「……誰?……僕は……誰だろう?」
レメディスの問いに答えるわけでもなく、小さく彼は呟いた。
「どうして、こんなことが出来るんだろう?」
 埃が散り、姿を現したのはブロンドの髪。襲撃者はリーゼと同世代、そして彼女よりやや背が高いくらいの、少年だった。
「……なんだこいつ」
 レメディスは瞠目する。幾ら古い家とはいえ、壁を塵にするには重火器かなにか、強力な武器が必要であった。それにも関わらず、襲撃者の少年が持つ物は、ただの太い木の枝。
「……僕は……?」
 自らの右手を開き、見つめる少年。更に言葉を溢した彼は、自らの力に驚いているようにも見えた。彼のサンシャイングリーンの瞳は戸惑い、疑問に満ちている。
不意に虚ろであった彼の視線がある場所にそそがれた。その先は肩を震わせ、レメディスの背に縋っていたリーゼだった。
「助けに来ました、歌姫巫女リーゼ」
 発すると共に、襲撃者の光少ないサンシャイングリーンの瞳が煌きを取り戻した。そしてリーゼのダークブルーと交わる。刹那、不安げなリーゼを安心させるかのように彼が浮かべたのは、木漏れ日のような柔らかい微笑。
「……私、を?」
 リーゼが、首を傾げた。
 こんな人は見たことが無い、城の人じゃ、ない?
レメディスは知り合いで、誘拐犯だけど今のところ何もされていない。今の時点では彼らと共に居ても安全だとリーゼには思えた。ただ――。
「僕に助けを求めてた。ずっと、聞こえてた。リーゼ」
 少年は、リーゼに手を伸ばす。その手には、壁を粉々に出来るほどの力が秘められているとは到底思えない。
「……貴方は?」
 リーゼが問うた。まだ少し暗い視界で、少年が一歩、リーゼたちに近付く。
「近付くな!」
レメディスの鋭い牽制が宙を裂く。しかし少年はそれに反応すら見せず、相変わらず薄く笑うだけだった。
「……僕?僕は……」
 リーゼの疑問に答えようとしているのだろう。少年は一度、木の枝を持たない右手を、口元へ持っていき、瞼を伏せた。しかし、それもほんの数秒のことで、すぐに露になったサンシャイングリーン。そして少年は、残念そうに頭を振った。
「わからない、でもリーゼの歌だけを覚えてる。綺麗な、声だった」
「もしかして、フォリシテ様が助けを……?」
 可能性としては、あり得ない事でもない。
アルトー王国の歌姫巫女には、神の力を借りる能力がある、という伝承があった。事実、百何十年前まではそういう現象も本当にあったらしい。が、それも遠い過去の話。近代、女神フォリシテが巫女に力を貸すことなど、無かった。
力を無くした巫女。そう影で囁かれるようになったのはいつからだろう。
一瞬、リーゼは己が思考に沈んだ。刹那、目の前にあったレメディスの背が消えた。リーゼが展開についていけず呆然としていれば、間髪入れずに聞こえてきたのはレメディスの苦しそうな声。
レメディスは、少年の繰り出した蹴りに吹き飛ばされ、女神フォリシテの礼拝台に突っ込んでいた。それでも、壁や女神像が壊れないところを見ると、手加減された攻撃だったのだろう。
「さぁ、逃げよう!」
 少年は、現状を理解できていないリーゼを荷物のように肩に抱え、古屋に二階から飛び降りた。着地は上々、そのまま彼は走りだす。
「レメディス様!?」
 少し遠くなった家から聞こえた声は、ユーの吃驚の声。そして――。
「城に戻るな!城は、危険だ!」
 苦しそうなレメディスの、渾身の叫び。続けて、複数の足音と、追え、走れ!起きろビス!などと声がしたが、それもすぐに遠くへ消えてしまった。



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