少年が森を走り出して、何十分経っただろうか。
 空は未だ朱に燃え、夜を天井から追い出している最中だった。
時間としてはあまり経っていないのだろう。しんとした森は橙に染まっているが、まだ闇を帯びている。
「城に、戻りたいの?」
 少年の声には、驚きもなにも含まれてはいなかった。純粋にリーゼの願いを叶えようとしているような、そんな声音。
 少年は目を瞑った。
何を思っているのだろう?リーゼは考えたが、それが分かるはずもない。
すぐに目を開いた彼は、ある方向を指差した。
「あっちの方だ、城は。出来るだけ静かに」
 辺りを見回す事無く、城の方向を言い当てる。それが合っているならまさに神業だ。そして少年は、森の闇をものともせずに、自称城の方向へと足を進め始めた。
「貴方は……?」
 何者なの?
 少年に続きつつ、その意味合いを含め彼を見つめるリーゼ。しかしそれが少年に伝わることも無かった。少年は二、三度サンシャイングリーンの瞳を瞬かせ、小首を傾げる。結局、解釈に苦しんだのか、少年は柔らかく微笑んだ。
「そういえば、僕の名前は……」
話題の変更を図った少年。自己紹介をしたいらしいが、また彼は首を傾げる事になる。どうやら少年の記憶の中には、自分の正体どころか名前すら見当たらないようだ。
「……無い?僕の名前は、無い」
 少年の唇が形作った言葉は、ただ事実を述べただけの薄っぺらなものだった。それに、少年の感情は篭っていない。現実を受け入れているだけの言葉。
 しばらくの沈黙。朝露に濡れた枯葉を踏んで歩く二人。その湿った足音が辺りを不自然に彩った。
「リーゼ、名前を考えて」
「名前を?」
 今度は、リーゼが首を傾げる番。何かの名前を考えた事など、リーゼはこの世に生を受けてから、一度も無かったのだ。具体的にどんな案を出したら良いか、彼女には思い当たる所が無い。否、思い当たらないこともないのだが――。
 また静寂が訪れた。
 意を決し、リーゼは口を開く。
「エルヴェはどうですか?フォリシテ様の従者様の名前です」
「リーゼが考えてくれたなら、それで良いよ」
「……え?良いのですか?」
 嬉しそうに頷く少年改めエルヴェ。リーゼは、彼に勘付かれないように息をついた。
 アルトー王国では、神の名前をつけるのを避ける傾向がある、それが例え従者であれだ。古い伝承だが、神の名を持つ者は革命児とされ、国に難が訪れると真っ先に事の矛先を向けられるのだ。
 伝承を知っているはずリーゼ。それにも関わらず彼にその名を与えたのは、神の意思か何かなのだろうか。
「今の僕は、貴女のために存在してる。そんな気がするから、貴女の言うことを聞くよ」
 エルヴェは柔らかく微笑んだ。そして続ける。
「さぁ、少し走ろう。あいつら、リーゼを探してる」
「レメディス達が……」
小さく言うリーゼ。その脳裏によぎったのは礼拝台に倒れこんだレメディスの姿だった。
急に静まったリーゼを不審に思ったのか、エルヴェのサンシャイングリーンの瞳が、心配の気配を湛えリーゼを覗き込み、言う。 
「さっきみたいに、抱えようか?」
 リーゼのダークブルーが現実を見、苦笑。
「え、遠慮します」
 肩に担がれたまま走られるのは、お世辞にももう一度乗りたいなど言えたものではない。揺れもさることながら、肩が内臓を圧迫したときなど吐き気を覚えたほどだ。
「そう? じゃあ良いよ、歩こう。足元に気をつけてね」
 エルヴェが言うと同時、遠くの方でかすかに聞こえたのは人の声。彼は辺りを見回し、手ごろな隠れ場所を探す。声の大きさからしてそう遠くにいるわけではないだろう追手。ただ、まだ明るくなりきらない森の闇に紛れれば、逃げることは容易だ。
不意に、エルヴェの柔らかそうなサンシャイングリーンが、リーゼの清らかな巫女服を映した。
「リーゼ、その服、目立つね」
 暗い森に、真白い服は不自然だった。エルヴェに言われ、リーゼもそのことに気付いたが、あいにく予備の服などあるはずがない。
「脱げないですよ」
 困惑しつつ、リーゼは告げた。
「いいよ。でも、見つかったみたいだ」
 遠くから、足音が迫り来る。そちらに視線をやれば、目の覚めるスカーレットの短髪が、闇を掻き分けてこちらに向かっていた。
「ビス?」
「歌姫巫女様〜! 城は駄目だよ!」
ビスがリーゼに向けたのは、見慣れれば人懐っこい笑顔。リーゼはつられて、優しく微笑んだ。彼女とは逆に、エルヴェは鋭い視線を彼に向けている。
大きい歩調で、湿った音を立て走るビス。リーゼとビスの距離、あと数メートルというところ。そこで再度ビスは口を開いた。
「城へ行っちゃだ――」
 しかし、言葉を言いきる前に電光石火の速さで、エルヴェがビスとの距離を詰めた。
「!?」
 エルヴェが視界から急に消え、ビスはおののく。刹那、ビスがエルヴェの姿を捉えたのは、自らの足元、体勢を低くし、蹴りを繰り出す彼の姿だった。
 エルヴェの鋭い蹴りが、ビスの下顎に襲い掛かる。
 声も出せずに、ビスはその場に倒れこんだ。
「ビス!?」
「大丈夫、気絶させただけ」
エルヴェは、うつ伏せに倒れたビスを仰向けに寝かしなおし、彼の持つ剣を奪い取った。その際、エルヴェは首の焼印に視線を走らせる。
「……奴隷番号T列? 普通奴隷か」
 エルヴェの声音は、ややつまらなそうだった。一般に比べると体躯の良い部類に入るビス。外見からして、もう少し戦えるとでも思っていたのだろうか。
「ビス!」
 ビスは呼んでも身動ぎすらしない。リーゼの瞳の光が不安を灯し、彼に歩み寄ろうとする。しかし、それはエルヴェの無言の静止によって阻止された。
「何?」
 大粒の涙を溢しそうな濡れたダークブルーが、エルヴェを映す。彼女の目に映ったのは、背を自らに向けたまま後退してくるエルヴェの姿。彼は、何かを警戒している。
 エルヴェのサンシャイングリーンの視線が射抜いていたのは、ファントムグレーの瞳の持ち主。



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